s_a_0000’s blog

自分の考えをつらつら書いている、自分用のブログです。

何をしている状態が、自分が幸福を感じるのかが、わからないんだ

自分が何をしている時に、幸福感を感じているのか。

 

もっとゆっくり考えたい。

答えがでるかはわからないけど。

時間がほしい。

 

ああ、そうか。

時間を区切らないから、答えが出ないのかもしれない。

答えを出すというのは、完全性を求める作業というよりも、

到達点を決定する「意志」のことなのか。

私は、やはり、確定する基準を持ち合わせていないのかもしれない。

 

ああ、

決めたい。

 

自分軸を立てるとは、そう簡単なことではないのかもしれない。

日々のやることに押しつぶされながら

とりあえずやっている、という日々。

自分が決めた目標に向かって進んでいると実感できない日々は、

とても恐ろしい。

少しの音楽が、自分の波長を整えてくれるらしい。

 

自分のアイデンティティを確立しようとしながら

そんな目に見えない空虚なものにしがみつこうとする自分も嫌になり

意志というものを明確に持たないまま、時間が過ぎてしまうこわさ。

 

もっと、もがくべきなのではないか。

 

もっと、徹底的にこだわるべきではないか。

 

自分軸を立てるとは、そう簡単なことではないらしい。

 

自分軸形成のためには、私は、ここで、一人でいる必要があるらしい。

目標に対して、短期間で最大限の効果を出すには、どうしたらいいの?

目標に対して、短期間で最大限の効果を出すには、どうしたらいいの?

 

今までこの視点で考えたこと、そういえばなかった。

でも必要だよなー確かに。

時間は限られているし。

人生の時間も限られているし。

私は死などないと思っているし死んだ世界でもやりたいことをできると思っている。

だから、わりと悠長に物事を考えがち。

つまり、唯物論で死んだら終了と思っている人ほど、この赤文字の価値観が

強いんじゃないかと思う。もしかすると切迫感があるのかもしれない。

年齢に焦る、というのも、こういった背景があるのかも。

 

私の思考の軸は、もっぱら、ベストな目標を立てることだった気がする。

 

目標を決めるのは自分、達成基準も自分、完全にセルフィッシュであり、本質的には自分軸。

だから、目標を決められたり、達成基準を決められたり、他人を意識するという方向性からはびっくりするぐらい真逆。

でも、今思うと、前者のほうが、自分は圧倒的にうまくいった。

なぜかというと、それが本来の自分だから。

 

まあたしかに弊害はある。

向かうべき方向性が大事だろうと思っていたから。そのために実現しないことも多々あった。

向かうべき方向性という観点からいうと、私は、方向性が見えたから、今このフェーズに入ってきたんだと感じている。それは過去にブログを毎日書くという経験の中で定まったこと。

 

「人事を尽くして天命を待つ」

直感を頼るというのは、ある意味神頼みだけしているような状態ってことか?

 

世の中を知る、知識が多い、ということは、どれだけ大事なのか?

神に近づく行為だから、知識が多い方がいい。

 

 

目標に対して、短期間で最大限の効果を出すには、どうしたらいいの?

より有益な知識を取り入れて、前に進むスピードを上げる。

「知識量」「より品質の良いものを使う」「単純にスピードが速い」

「没頭・熱中・楽しい」

知識 技(頭脳)

健康 体    

精神 心

 

 

 

 

 

じかんかちさいだいか

時間っていうものの価値っていうものを最大化するってなんだろか。

 

データと情報って違うっぽい。

無益か有益かの違いか。

無益なものを有益なものに変えること。

これは、

ただ100の作業をやって1成果があがるものがあったとしたら

有益な情報を得ることによって

10の作業をやって1成果があがるようになる。

1日で10日分の作業をしていたことになる。

だから、これが時間価値がより大きくなる。

より短い時間で、成果を出そうぜってことか。

この思想の奥にあるのは、効率化か。

コミュニケーションを通じて得たものを徹底的に有益な情報として取り扱っていく。

知識かしていく。

なんだろう。なんか、見えない。

 

要は、できる限りデータを有益な情報にして、

その情報を用いることで短時間でより効果を上げる。

ということか。

 

つまり、効率化。

 

これは、私としては、目的にいかに早く到達するかという手段であり、

つまり、つきつめると世界をデザインするわけではないっていうこと。

 

で、そうした先に、どうするの?

といつも思っていた。

そこは私が考える領域なのだろう。

 

となると、完全な成果重視であり、

世界観をデザインするというところは、

いかない。

デザインされた世界に対して、より短い時間でそれを実現していく手段。

その手段が、今私がいる場なんだろう。

となると、決まった目標に対して、短期間で最大の成果を出す人間が

求められているんだろうな。

となると、自分の足りない部分を養成する場ということだろうか。

 

デザインする力がある自分が、全て一人でこなそうと思うと、

どうしてもこの場で求められる要素を獲得した方が

「実現」できる可能性を上げられるってことだろう。

 

目標に対して、短期感で、最大の成果を出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

拡散的思考の持ち主が、自分の思考を「確定」するために、書く

書いてみて思ったのは、なんか多分noteのほうが見やすい。

あと、私は、自分の文章を読んでもらうことが目的ではない。

ああ、そうか。

わかった。

 

私は、自分の思考を「確定」させるために、書いて表して自分の目で見るということをしているんだ。私は、思考を確定させたいんだ。思考内容が本当に存在するものだということの証明を、自分の目でしているということだろうか。

 

人は、目で見たものを「確定」したものだと思うんだ。

確定させて、思考を「あるもの」として認識することなのだ。

思考を整理する、とかいうが、自分はそういうことを思っている、ということを、

自分が確定させることによって、自分が納得する、自分の思考の確定者がいた、ということだ。

出す側と受け取る側がいて、「確定」が起こる。

出す自分と受け取る(見る)自分。

 

拡散的思考の人間にとっては超絶重要ですな。

 

 

で、思考を確定させていくんだけれども、

結局どこに行きたいのか。

 

今日死ぬとしたら、私は満足だろうか。

今日私は、ベッドに入ったらもう二度と目覚めることがないとしたら、

私はそれまでの残りの数時間を、何に使うべきなのだろうか。

 

文章を縦に書くと、頭の中にたくさん湧いていたはずの私の大切な直感たちが、

どこかへ置いてけぼりになってしまう。

 

過去、自分が毎日記事投稿した経験から、やはり自分のインスピレーションを書き残し、

人も見える場所に残すというのは重要なような気がする。

そこに私の本名が載る必要はない。自分の主義主張や、思いつくものをどんどん書き出して、

書いたあとに自分が気づく。

これは、しかも、誰かに見てもらうというのがどうやら重要なようで。

それからPVや人の評価は、本質的には求めていなくて。(ニーズ調査の目的は若干果たせるが)

 

私自身に注目してほしいのではなく、(若干ちやほやされたい気持ちがあるが逆もあるのであまり足を突っ込まない方が得策だと考えている)自分自身を強くするもの、本当に自分のためにやることだと思う。

 

本題に戻るけれども、今日死ぬとしたら、私は、何をしたら満足だろうか。

睡魔に襲われそのまま寝るのもいいが、どうもやすきに流れる感じがする。

結局寝てしまった。。。みたいな、何もできなかった感がある。

1つとして、多分、こういう自分の頭に降ってきたものを書き残すというのが、

まず、大事なことであろうと思う。だけど、書き残して、自分だけが見れば満足かというと、そうではなくて。そう思う理由は、人前に出すから、書く気が起きるというわけで。

本名でやると、遠慮と人の目を気にする心がどうしても生まれるので、本来の自分の言葉と、書くことを通じて向き合うというのが難しいように思う。

 

だからまず、本題に戻ると、

【今日死ぬとしたら、私がやりたいこと】

①自分の思っていること・頭に降ってきた考えを、人が見るところに書き残す。

 

あとはなんでしょうか。

そうですね。理想の自分を作り上げるというのが、頭に浮かんだのだけれど、この考え方はあるのだけれど、どれだけ優先順位が高いかは怪しいところで。

ただ昔の成功していた頃は、良い意味でのプライドもあったと思う。自信というかね。

そういうものを取り戻したいんだと私は思う。

そのためには、何が必要か。

「自分は頭がいい」ということ。

それは、人が見て?自分が認められる?両方かな

自分の基準で、納得できるかどうか。

自分の基準は、人の評価という軸が組み込まれている気もするのだけれど。

これは、「今日死ぬとしたら」ではなく、「死ぬまでに」だと思う。

 

では副題をつけましょう。

【死ぬまでに、やりたいこと】

①自分が納得する基準を、自分が満たしていること。

これは深掘りする必要がありそうですね。

自分はどうやったら納得するでしょうか?

おそらく、何かの基準をパスすることで、評価を「確定」できる。

だから、「確定」できる何かがおそらく必要なんだと思います。

自分が納得できる自分、それを確定してくれるものは何か。

1つは『博士号取得』だと思います。

彼は、私が欲しいものをもっていたようです。

彼にはもう一度、会いたいですね。以下にまとめます。

 

【死ぬまでに、やりたいこと】

①自分が納得する基準を、自分が満たしていること。

 ・博士号取得

②彼にもう一度会うこと。

 

あとはなんだろう。

博士号と考えると、なにやら自己顕示欲が出てきました。

本出したい、私の名前を検索すると、本が出てくる、

みたいな未来を想像している自分がいます。

「想像できる」けど「やりたいか」と言えば???と感じます。

この感情はなんでしょう。

想像できるのにやりたくないっていうのは、一体どういう現象なのだろう。

そこにたどり着くまでに、経験する労力に恐れ慄いているのか、ただ単に、

そこにたどり着くまでの工程が見えないのか。

そもそも何を書くか、というのも重要な気がして。

自分の本の質=自分の質なんじゃなかという気がして。

でも果たしてそうか?

恐れる理由は、他者が介在するからか。

でもだからといって、人の介在しない生活を送ることはなかなかできなくて。

世のため<自己保身 この状態だと、おそらく世の中にでることはできなくて。

でも、本を出したとて、自分が何者でもなければ、ただの戯言にしかならないような。

恩師の本は、彼のプライドと人生の叡智を詰めこんだものに感じる。

私はまだ、何か、まだだ、という感じがするんだ。

でも、必要になったら、そういったこともおこるかもしれない。

 

①自分が納得する基準を、自分が満たしていること。

 ・博士号取得

これについてもう少し考えたい。

分野はわからない。ただ、これだと決まってから学びたいとは思う。

 

ちょっと脱線するが、

会社の中にいると、責任がともない、

責任を果たすためには、その行動の根拠を人は求め、

その根拠はつまり、人がそういっているから、認められた根拠だから

ということになり、再現可能性のあるもの・学問・データのようなもの

が着地点となる。

人がデータを求める・根拠を求める本質は、自己保身なんじゃないかと思う。

会社がデータを求めるのは、自己保身である。という見方を私はしてしまうきらいがあります。

この世は無常、だからこそ、人は「確定」したものを求める。のかもしれない。

こういったことを考えるのは、「哲学」の領域なのか?

なぜ人がデータを求めるのか、なぜ社会がデータを求めるのか、

これは過去からの流れを見ていると、

必然と読み解けるのかもしれない。

そこには、過去の事実を辿る必要があり、

事実を確定するというのは、なんとも難しい。

過去のデータでさえ、それって本当?と思ってしまう。

リーガルハイの言葉が思い出される。

「うぬぼれるな。我々は神ではない。ただの弁護士だ。真実が何かなんてわかるはずがない」

私は、たぶん神を目指しているのだと思う。

でも、真実が何かなんて、わかるはずがない。でもわかりたい。

そんなところだろう。

神になるには、全てを理解すべきだ。でも、私にはできないだろう?

そうなると、自分にできることは何か?

わたしたちは、神の視点を持ちたくて、それに近づきたくて、

全ての情報を集めたくて、そういった根源的な欲求を私たちは持っている

んじゃないかと思っている。

人間の根源的なニーズというのは、全てを知ること。

完全性。完璧性。

頭の良い男性からたまに聞く、全能感にひたる、という言葉。

神に近づきたいという欲求。

 

真実とはわからない。でも私たちは、それに近づきたくて、それに近づくことをもとめられて、私たちはデータというものを扱っている。

では、直感とは?神が直接下ろすもの。それは、データで神に近く過程を辿るものに比べ、

神そのものが降りてくるので、それは真実である。

だから、直感を信じるべき。

直感を信じるという感覚を持ち合わせていない人間は、

データを大事にする。ロジックを大事にする。

こういった思想を持っている私は、

はたして今の会社でどうやって生きて行ったらいいのだろうか。

という疑問がずっと頭の中に行ったり来たりしていた。

やっと目の前に思考を取り出すことができた。

 

直感は、確定できない。確かに。

サンプル1だし。だからこそ、その人にしか、意味をなさない。

だから、根拠は?と聞かれたら、私がそう感じ、そう感じさせるように神がしたと信じているから。という答えになる。唯物論者にはまったく通じないわけで。

 

データは、サンプル数が多く、自分以外の人間がそうだったという裏付けがある。

そういう意味で、サンプル1とサンプル多だったら、サンプル多の方の意見を

取り入れるのが、責任を果たす必要のある人間が、自分の行動の根拠として使うには

良い選択だろう。ただデータは統計であって、自分がそこに当てはまるとは限らない。

 

つまり、どういう行動を自分が取るべきか。

人の会社で働いている時は、データや統計を信じるべきで。

人に関わらない自分のことに関しては、直感を信じると。

まあでも、みんなこれを本能的にはふつうにやっているのかもしれないな。

私はそこをあえて考えているだけかもしれない。

 

で、結論は何か?

そう、いつも結論を出さずに終わってしまうきらいがあるので、これはちゃんとやりたい。

 

 

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今日の本題:

 今日死ぬとしたら、私は満足だろうか。

 

結論:

 

【今日死ぬとしたら、私がやりたいこと】

①自分の思っていること・頭に降ってきた考えを、人が見るところに書き残す。

 

【死ぬまでに、やりたいこと】

①自分が納得する基準を、自分が満たしていること。

 ・博士号取得

②彼にもう一度会うこと。

 

【自分が取るべき選択】

人の会社で働いている時は、データや統計を信じるべきで。

人に関わらない自分のことに関しては、直感を信じると。

 

 

悲しいことに、タイトルからぶれまくり、

私はまったく論理的な文章を構築することも、

論理的な思考をすることもできていないということが

ここではっきりしました。

これぞ拡散的思考。

 

論理的思考の方を、スーパーイライラさせてしまっている。

まじで申し訳ない。

 

この結論も、まだ不完全燃焼感。

考察はまだまだ続く。

でもさ、自分の中だけの知識だったら、

堂々めぐりだからさ、

やっぱり知識入れていかんとあかんのよ。

そのためには、自分のマックスの結論って、

なきゃいけないのよ。

自分の中のマックスの結論。

そのマックスの結論というのは、

拡散的思考で脳の風呂敷を広げるだけ広げて

論理的思考を使って構築されるという過程から生まれたものでないと

私が納得するマックスの結論とはならないんじゃないかなあ。

 

気がつくと3800文字。考えなんていくらでも浮かぶ。みんな、こういう状態なのかな?思考の動きって、自分でコントロールできるものですか?

 

自己表現って、書くことって、自分の中での排出の行為で、超重要。