s_a_0000’s blog

自分の考えをつらつら書いている、自分用のブログです。

今日死ぬとしたら、私は満足だろうか。

今日私は、ベッドに入ったらもう二度と目覚めることがないとしたら、

私はそれまでの残りの数時間を、何に使うべきなのだろうか。

 

文章を縦に書くと、頭の中にたくさん湧いていたはずの私の大切な直感たちが、

どこかへ置いてけぼりになってしまう。

 

過去、自分が毎日記事投稿した経験から、やはり自分のインスピレーションを書き残し、

人も見える場所に残すというのは重要なような気がする。

そこに私の本名が載る必要はない。自分の主義主張や、思いつくものをどんどん書き出して、

書いたあとに自分が気づく。

これは、しかも、誰かに見てもらうというのがどうやら重要なようで。

それからPVや人の評価は、本質的には求めていなくて。(ニーズ調査の目的は若干果たせるが)

 

私自身に注目してほしいのではなく、(若干ちやほやされたい気持ちがあるが逆もあるのであまり足を突っ込まない方が得策だと考えている)自分自身を強くするもの、本当に自分のためにやることだと思う。

 

本題に戻るけれども、今日死ぬとしたら、私は、何をしたら満足だろうか。

睡魔に襲われそのまま寝るのもいいが、どうもやすきに流れる感じがする。

結局寝てしまった。。。みたいな、何もできなかった感がある。

1つとして、多分、こういう自分の頭に降ってきたものを書き残すというのが、

まず、大事なことであろうと思う。だけど、書き残して、自分だけが見れば満足かというと、そうではなくて。そう思う理由は、人前に出すから、書く気が起きるというわけで。

本名でやると、遠慮と人の目を気にする心がどうしても生まれるので、本来の自分の言葉と、書くことを通じて向き合うというのが難しいように思う。

 

だからまず、本題に戻ると、

【今日死ぬとしたら、私がやりたいこと】

①自分の思っていること・頭に降ってきた考えを、人が見るところに書き残す。

 

あとはなんでしょうか。

そうですね。理想の自分を作り上げるというのが、頭に浮かんだのだけれど、この考え方はあるのだけれど、どれだけ優先順位が高いかは怪しいところで。

ただ昔の成功していた頃は、良い意味でのプライドもあったと思う。自信というかね。

そういうものを取り戻したいんだと私は思う。

そのためには、何が必要か。

「自分は頭がいい」ということ。

それは、人が見て?自分が認められる?両方かな

自分の基準で、納得できるかどうか。

自分の基準は、人の評価という軸が組み込まれている気もするのだけれど。

これは、「今日死ぬとしたら」ではなく、「死ぬまでに」だと思う。

 

では副題をつけましょう。

【死ぬまでに、やりたいこと】

①自分が納得する基準を、自分が満たしていること。

これは深掘りする必要がありそうですね。

自分はどうやったら納得するでしょうか?

おそらく、何かの基準をパスすることで、評価を「確定」できる。

だから、「確定」できる何かがおそらく必要なんだと思います。

自分が納得できる自分、それを確定してくれるものは何か。

1つは『博士号取得』だと思います。

彼は、私が欲しいものをもっていたようです。

彼にはもう一度、会いたいですね。以下にまとめます。

 

【死ぬまでに、やりたいこと】

①自分が納得する基準を、自分が満たしていること。

 ・博士号取得

②彼にもう一度会うこと。

 

あとはなんだろう。

博士号と考えると、なにやら自己顕示欲が出てきました。

本出したい、私の名前を検索すると、本が出てくる、

みたいな未来を想像している自分がいます。

「想像できる」けど「やりたいか」と言えば???と感じます。

この感情はなんでしょう。

想像できるのにやりたくないっていうのは、一体どういう現象なのだろう。

そこにたどり着くまでに、経験する労力に恐れ慄いているのか、ただ単に、

そこにたどり着くまでの工程が見えないのか。

そもそも何を書くか、というのも重要な気がして。

自分の本の質=自分の質なんじゃなかという気がして。

でも果たしてそうか?

恐れる理由は、他者が介在するからか。

でもだからといって、人の介在しない生活を送ることはなかなかできなくて。

世のため<自己保身 この状態だと、おそらく世の中にでることはできなくて。

でも、本を出したとて、自分が何者でもなければ、ただの戯言にしかならないような。

恩師の本は、彼のプライドと人生の叡智を詰めこんだものに感じる。

私はまだ、何か、まだだ、という感じがするんだ。

でも、必要になったら、そういったこともおこるかもしれない。

 

①自分が納得する基準を、自分が満たしていること。

 ・博士号取得

これについてもう少し考えたい。

分野はわからない。ただ、これだと決まってから学びたいとは思う。

 

ちょっと脱線するが、

会社の中にいると、責任がともない、

責任を果たすためには、その行動の根拠を人は求め、

その根拠はつまり、人がそういっているから、認められた根拠だから

ということになり、再現可能性のあるもの・学問・データのようなもの

が着地点となる。

人がデータを求める・根拠を求める本質は、自己保身なんじゃないかと思う。

会社がデータを求めるのは、自己保身である。という見方を私はしてしまうきらいがあります。

この世は無常、だからこそ、人は「確定」したものを求める。のかもしれない。

こういったことを考えるのは、「哲学」の領域なのか?

なぜ人がデータを求めるのか、なぜ社会がデータを求めるのか、

これは過去からの流れを見ていると、

必然と読み解けるのかもしれない。

そこには、過去の事実を辿る必要があり、

事実を確定するというのは、なんとも難しい。

過去のデータでさえ、それって本当?と思ってしまう。

リーガルハイの言葉が思い出される。

「うぬぼれるな。我々は神ではない。ただの弁護士だ。真実が何かなんてわかるはずがない」

私は、たぶん神を目指しているのだと思う。

でも、真実が何かなんて、わかるはずがない。でもわかりたい。

そんなところだろう。

神になるには、全てを理解すべきだ。でも、私にはできないだろう?

そうなると、自分にできることは何か?

わたしたちは、神の視点を持ちたくて、それに近づきたくて、

全ての情報を集めたくて、そういった根源的な欲求を私たちは持っている

んじゃないかと思っている。

人間の根源的なニーズというのは、全てを知ること。

完全性。完璧性。

頭の良い男性からたまに聞く、全能感にひたる、という言葉。

神に近づきたいという欲求。

 

真実とはわからない。でも私たちは、それに近づきたくて、それに近づくことをもとめられて、私たちはデータというものを扱っている。

では、直感とは?神が直接下ろすもの。それは、データで神に近く過程を辿るものに比べ、

神そのものが降りてくるので、それは真実である。

だから、直感を信じるべき。

直感を信じるという感覚を持ち合わせていない人間は、

データを大事にする。ロジックを大事にする。

こういった思想を持っている私は、

はたして今の会社でどうやって生きて行ったらいいのだろうか。

という疑問がずっと頭の中に行ったり来たりしていた。

やっと目の前に思考を取り出すことができた。

 

直感は、確定できない。確かに。

サンプル1だし。だからこそ、その人にしか、意味をなさない。

だから、根拠は?と聞かれたら、私がそう感じ、そう感じさせるように神がしたと信じているから。という答えになる。唯物論者にはまったく通じないわけで。

 

データは、サンプル数が多く、自分以外の人間がそうだったという裏付けがある。

そういう意味で、サンプル1とサンプル多だったら、サンプル多の方の意見を

取り入れるのが、責任を果たす必要のある人間が、自分の行動の根拠として使うには

良い選択だろう。ただデータは統計であって、自分がそこに当てはまるとは限らない。

 

つまり、どういう行動を自分が取るべきか。

人の会社で働いている時は、データや統計を信じるべきで。

人に関わらない自分のことに関しては、直感を信じると。

まあでも、みんなこれを本能的にはふつうにやっているのかもしれないな。

私はそこをあえて考えているだけかもしれない。

 

で、結論は何か?

そう、いつも結論を出さずに終わってしまうきらいがあるので、これはちゃんとやりたい。

 

 

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今日の本題:

 今日死ぬとしたら、私は満足だろうか。

 

結論:

 

【今日死ぬとしたら、私がやりたいこと】

①自分の思っていること・頭に降ってきた考えを、人が見るところに書き残す。

 

【死ぬまでに、やりたいこと】

①自分が納得する基準を、自分が満たしていること。

 ・博士号取得

②彼にもう一度会うこと。

 

【自分が取るべき選択】

人の会社で働いている時は、データや統計を信じるべきで。

人に関わらない自分のことに関しては、直感を信じると。

 

 

悲しいことに、タイトルからぶれまくり、

私はまったく論理的な文章を構築することも、

論理的な思考をすることもできていないということが

ここではっきりしました。

これぞ拡散的思考。

 

論理的思考の方を、スーパーイライラさせてしまっている。

まじで申し訳ない。

 

この結論も、まだ不完全燃焼感。

考察はまだまだ続く。

でもさ、自分の中だけの知識だったら、

堂々めぐりだからさ、

やっぱり知識入れていかんとあかんのよ。

そのためには、自分のマックスの結論って、

なきゃいけないのよ。

自分の中のマックスの結論。

そのマックスの結論というのは、

拡散的思考で脳の風呂敷を広げるだけ広げて

論理的思考を使って構築されるという過程から生まれたものでないと

私が納得するマックスの結論とはならないんじゃないかなあ。

 

気がつくと3800文字。考えなんていくらでも浮かぶ。みんな、こういう状態なのかな?思考の動きって、自分でコントロールできるものですか?

 

自己表現って、書くことって、自分の中での排出の行為で、超重要。